Column
「トライリンガル教育」を推奨するYES International Schoolの校長である竹内薫先生。今回そのYES International Schoolで起きた2つの出来事を紹介します。これはきっと学校に通わせている親御さんであれば、他人事ではない問題でしょう。
いつも理想論ばかりぶっていますが、先進グローバル教育の現場には生々しい現実があります。今回は、われわれが日々経験している問題のいくつかをご紹介しましょう。
注:個人が特定できないよう、以下、細心の注意を払って原稿を書いております。
そのお母さんの言葉を聞きながら、思わず、着せ替え人形という言葉が脳裏に浮かびました。事の顛末は、こんな具合です。
YES International Schoolは終業式を迎えていました。4月の新学期から別の学校に転校する生徒が二人いて、新たに4月から入学してくる生徒が8人います。ちなみに、8人のうちの一人は前倒しで入学してしまったので、終業式にも出ています。というわけで、校長の私からの挨拶では、新入学の1名に「ウェルカム」と呼びかけ、お別れする2名に「次の学校でも頑張ってね」と元気づけるものとなりました。
生徒たちが、去りゆく仲間にメッセージを送り、みんなでハグをしました(ここら辺はインターナショナルスクールならでは?)。みんな涙ぐんでしまい、それでもよい感情に包まれての終業式となりました。
式が終わって生徒たちが帰る段になり、お迎えの親御さんが数名玄関で待っています。そのうちの一人が私に手招きをしました。
「はい、なんでしょう?」
するとそのお母さんは、エレベーターで下に降りて、立ち話がしたいと言うのです。ちょっと変だなと思いましたが、他の親や先生方に聞かれたくないのかと思い、エレベーターで一緒に一階に降りました。すると……。
「今日で学校を辞めます」
一瞬、意味がわかりませんでした。たった二日前にこのお母さんとは保護者面談をしており、来期の指導方針についても詳細に説明していたからです。
「理由をお訊ねしてもよろしいですか?」
「どうしても品川と横浜は遠くて」
目が点になりました。電車で15分の距離ですから。
半年前、このお母さんは、自分の子どもがさまざまな問題を抱えており、小学校に行かれなくなったと言って、「藁にもすがる」ような気持ちでウチの学校の扉を叩いたと、涙ながらに訴えていました。実際その子は、自分にできないことがあるとパニックに陥って泣き喚いてしまい、前の公立小学校に通えなくなっていたのです。
しかし半年かけて、私たちはこの子を誠心誠意ケアしました。その甲斐あってか、この子は学校でパニックを起こすことが皆無となり、勉強も体育も芸術もきわめて順調に伸び始めていた矢先でした。
このお母さんは、「うちの子はYESのおかげで『生き返った』と言っています。そのことには感謝しています」と繰り返しました。そのことに「は」という表現には、「ただ、他のことには不満がたまっています」という意味が込められていました。生き返ったというのは決して誇張ではなく、たしかにこの子はきわめて深刻な状況に置かれていたと思いますし、ウチの教育環境が合っていたからこそ、生き返ったのです。
ただしいったん生き返れば、とたんに欲が出てくるものです。もっといい学校があるのではないか。もっときれいな校舎で、きれいな制服で、駅近か送迎バスがあって、授業料ももっと安い、理想の学校があるにちがいない。YESの役割は「生き返った」時点で終わったので、うちの子にはこんな校庭もないビルの一室だけのしょぼい学校ではなく、ホンモノの学校に通わせたい。
どうやら、そういうことらしいと気づきました。
まだ小学1年生だというのに、この子はもう何度も学校を「着せ替え」させられています。喉元過ぎれば熱さを忘れると言いますが、この母親の表情には半年前の切羽詰まった様子は微塵も感じられず、ちっちゃくてしょぼい学校への不平不満だけが見えていました。
感動的な別れの儀式の直後、この子はただ1人、仲間や先生方に「さよなら」を言う機会すら与えられず、人間関係を「ぶちっと」切り捨てて去って行きました。まるで彼の人生にYESインターナショナルスクールの半年が最初から存在しなかったかのように。
つくづく理想の教育って難しいなと感じました。われわれは先進グローバルというテーマだけでなく、子どもたちの心の教育に重点を置いています。そんなわれわれの情熱が必ずしも保護者に伝わるとは限りません。自分たちを信じて前に進むしかないのです。
少人数制のYES International Schoolには、いじめは存在しません。先生の数が多すぎて、芽のうちに摘んでしまうからです。摘むといってもいきなり叱責するのではなく、子どもの「気づき」を引き出すのが学校の基本方針。
4月の新学期で、子どもたちもワイワイガヤガヤ、授業と自由時間を楽しんでいました。そんななか、子どもたちの間で“あだ名ごっこ”が流行りだしました。最初はアニメの登場人物などの名前を使っていたのに、やがてそれがエスカレートしていき、発音のおもしろいあだ名や、本人の名前を組み込んだもの、性格をあらわすもの、そして5月の連休明けには、とうとう身体的な特徴にまで……。
あだ名をつけるのは、主に男の子たちです。毎日異なるあだ名で呼ばれていたある女の子は、最初のうちは「やめてよ!」と、笑いながら男の子たちをぶつ真似などしていましたが、やがて異変があらわれました。
道をボーっと歩いていて、停車中のトラックのミラーにおでこをぶつけてしまう。いつも乗っている自転車で、突然ふらついて横倒しとなり、膝を路面に打ち付けて泣きじゃくる。
「なんで、そんなにボーっとしてるの?」
心配して訊ねた父親に、女の子は、ぼそっとこう答えたそうです。
「一昨日は『30キロ級』、昨日は『言う婆』、今日は『オカ××』って呼ばれた。もう学校行くのやだ」
身体の特徴、うるさく注意する婆さん、そして、おかしな××(本人の名前)というような意味でしょうか。他愛ないあだ名ごっこが、いつのまにかいじめの芽に育ってしまっていたのです。生徒数24名で、常時パートも含めた先生が5~7名はいるのに、どうしてここまで事態が進むまで見過ごしていたのか。
天気がいい日は、近くの公園にランチを食べに行きます。そこで、滑り台などを使って子どもたちが遊んでいるときに、こういったあだ名が発せられていました。引率の先生方は、ちょうど子どもたちの細かい発語が聞こえない距離のベンチに腰を下ろしていました。
翌日プログラミング・生活指導担当のM先生が、高学年の生徒全員に「お話」をしました。目をつむってもらって、「いま、悪い言葉でのいじめがあると思う人は手をあげて」。すると、過半数の子どもが手をあげましたが、あだ名遊びをしている子どもたちは手をあげませんでした。つまり、みんないじめの芽に気づいていて、しかしあだ名遊びをしている子どもたちは、それが「いじめ」だとは気づいていなかったわけです。
あだ名作りに熱中しすぎて、相手の心が折れてしまったことに気づいていない。この男の子たちは、みんな素直でいい子だし、繊細な心をもっている。そう、まったく悪気はないのです。
では、いじめの定義は何か。それはきわめてシンプル。何かをされた人が「嫌だ」と感じること。それがずっと続くこと。それだけ。
大人の世界のセクハラやパワハラと同じです。やっている人に悪気がなくても、相手がハラスメントだと感じたら、やめないといけない。たいていの場合、やられている本人だけでなく、周囲の人間の多くは、それをハラスメントだと感じているものです。
いじめの芽を摘んで、心の成長につなげることは、学校の中で最も大事な教育かもしれません。あだ名遊びの「笑い」が、あまりいい種類の笑いではなかったことに気づいて、相手の心の痛みを感じ取ること。それができたとき、あだ名遊びをしていた子どもたちの心にも痛みが残るはず。その痛みは、やがて、その子の心のなかで、他人への「思いやり」へと成長します。いや、成長してほしい。
理想の教育は、畢竟、心の教育です。それを放っておいて勉強ばかり、あるいは運動ばかりしていては、歪な人格形成になってしまいます。
いやあ、本当に難しいですねぇ。YES International Schoolは、毎日が試行錯誤の連続なのです。
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